夜に散歩をした。たまたま数日間人と会う予定が重なり、人といることに慣れてしまいそうで、落ち着くためにというか、元の私に戻るために歩いた。寒くて、耳が痛かった。それなのに気づいたら10キロくらい歩いていた。帰ってからお風呂に入って、眠る。
起きたら、身体が冷たくて重たいし、気分が沈んでいた。(一言で表すなら沈んでいる、正確には漠然と悲観的になるけれど、思考の一部はとても理性的に、明確に悲しんでいる。たちが悪い)忘れていたけれど、冬が来た。まだ桜が咲くには時間がかかるし、この寒さは当然のごとく続く。年を越したあたりで「そろそろ暖かくなるでしょ」と毎年思ってしまうが、間違っている。しばらく冬眠しようと思う。
冬の月の右下あたり、泣きぼくろの位置にそこそこ明るい星が光っていて、いつもその星の名前が気になっている。気になって、でも、調べない。ぼんやり空を見るのがとても好きなので、空を見たときに頭の隅から情報を勝手に引き出したり、あるいは受け取りたくないからだ。私は去年一年でぼんやり眺めるもののひとつ───海と空と絵画だけはぼんやり眺めることが多かった───から、絵画を失ったので(それは私が知識を身につけたと言うことで、喜ばしい)、せめて海と空のことは知らなくてもいいだろう、と思っている。とはいえ、アンタレスとかプレアデス星団とかフォーマルハウトとかベテルギウスとか、そういう言葉は知識としてある。本で見る、点と線の光らない星座。その情報としての星座と、実際に空の上で輝くの星々を繋げてしまったら、多分私は空を見なくなるだろう。
月の話がもうひとつ有って、私はいつか「今日の月はあなたの親指の爪に似ている」と書かれているのを読んでから、私にとって、月は自分のものではなくなってしまった。月が、その文章を書いた作家のもののように感じられるのだ。
私は失うということがとても苦手なので、それに伴って何かを所有することも苦痛で、(そもそも所有しなければ、失わない。)けれどそんな中で、月は私より先になくなることがないだろうし、そもそも私のものになるわけがないので、安心して所有した気になることができていた。それなのに、月は本当に私のものではなくなってしまったのだ。私の好きな作家の書いた「あなたの親指の爪」になってしまったから。
月という、この世で最も普遍的なもののひとつで、かつ、周期的変化を止めることのない存在と、親密な人間の親指の爪を結び付けるなんて。きっと、その爪を持つ「あなた」本人は自分の親指の爪をまじまじと見つめたりなんてしないだろう。これこそが「あなたの知らないあなたを、わたしは知っている」というもの。すごいことだと思う。確実に私には発生しないもの(私は、文章中のあなたにも、わたしにもならないだろうと思う)で、しかもそれを好きな作家の文章という形で知ってしまった。それ以降私はすっかり月を手放した。親指の爪とは似ても似つかない満月も、新月さえも。
この内容をTwitterでつぶやいたら「なんという作品ですか?」とリプをもらった。申し訳ないけれど、江國香織の作品であること、新潮社から出ていること以外思い出せない。というのも、私の本棚には彼女の作品が30冊近く有るからだ。さっき試しに、これかな?と思われた1冊を読み直してみたものの、予想は外れてしまった。でも多分、『ウエハースの椅子』だと思う。